インドネシアの通貨

インドネシア紹介

インドネシアの通貨単位はルピアRupiah(一般にRp.やIDRと表記します)です。ルピアという名前は、インドの通貨のルピーから来ています。1610年から東インド会社による経済的支配が始まり、インドルピーが流入してきました。日本軍政を経て独立した後、1949年にルピアがインドネシアの通貨単位として定められました。ルピアはインドネシアの中央銀行であるインドネシア銀行が発行しています。現行紙幣はRp.1,000、Rp.2,000、Rp.5,000、Rp.10,000、Rp.20,000、Rp.50,000、Rp.100,000の7種類で全て1998年以降に発行されたものになります。硬貨はRp.100、Rp.200、Rp.500、Rp.1,000ルピアの4種類があります。
1変動相場制を取っていて、1USDは現在約Rp.14,900で、1円は約Rp.140(2020年10月3日現在)です。
2013年以降、構造的な貿易赤字や米国の金融緩和縮小観測などによってルピア安がずっと進行して現在に至っております。2019年4月ごろからつい最近まではIUSD=14,000ルピアで安定していましたが、コロナの影響で現在1USD=15,000になっており、通貨安のリスクが現在もずっと継続した状態となっています。ルピア安のために桁数が多くなり過ぎて不都合が生じているため、財務省や中央銀行は、これまでに何度もデノミネーションを検討してきましたが2020年現在まで実現には至ってはいません。

各紙幣の紹介

Rp.100,000の肖像画

スカルノ(SOEKARNO)[1901-1970]左側の肖像 / ハッタ(HATTA)[1902-1980]右側の肖像
スカルノは、1945年の独立宣言後、インドネシアの初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した人物です。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送りましたが、今もなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、建国の父として敬意をもって愛され続けています。
ハッタは、インドネシア共和国の初代副大統領(1945年-1956年)で、スカルノとともに、インドネシアの民族主義運動、独立運動において主導的役割を果たしました。独立後、スカルノ大統領、ハッタ副大統領が国家運営に重要な役割を演じましたが、次第にスカルノと対立し、1956年に副大統領を辞職しています。しかし、1986年にはスカルノとともに「独立宣言英雄」の称号が与えられ、その名は、1985年にオープンした、スカルノハッタ国際空港にも冠されています。

Rp.50,000の肖像画

ジュアンダ・カルタウィジャヤ(DJUANDA KARTAWIDJAJA)[1911-1963]
西ジャワ州の東部にあるタシクマラヤ出身で、インドネシアの第一次財務大臣を務め、その後インドネシアの首相を務めました。彼の大きな功績は就任期間中の1957年にインドネシア共和国の領土近海を含む島々を海洋法に関する国際連合条約協定に群島国家としてインドネシアの海域であると表明した「ジュアンダ宣言」です。それまでのオランダの法律は改定され、インドネシアが群島国家としての地位を確立するための大きな一歩を示すことができました。結果としてこの宣言がきっかけとなり、インドネシアは領海を大幅に増やしていくことに成功しました。彼の功績を讃え、スラバヤ国際空港は氏の名前「Juanda」を残す事になりました。また彼の名前はバンドゥンの公園名(Taman Hutan Raya Ir. H. Djuanda)にも残されています。

Rp.20,000の肖像画

サム・ラトゥランギ(Gerungan Saul Samuel Yacob Ratulangi)[1890-1949]
サム・ラトゥランギは、北スラウェシ州トンダロ出身のジャーナリストであり、政治家です。彼もインドネシア国家独立の英雄の一人と称賛されています。ジャーナリスト時代は、躊躇せず植民地政府を批判し、リスクを顧みずにインドネシアのナショナリズムを支持しました。インドネシア独立宣言後にスラウェシの初代知事となり、スラウェシ島北部にあるマナドに位置する空港には彼の名前が付けられています。また、彼の名にちなんだサムラトゥランギ大学も有名です。

Rp.10,000の肖像画

フランス・カイシエポ(FRANS KAISEPO)[1921-1979]
フランス・カイシエポはパプアの政治家、およびインドネシアの国家主義者であり、西イリアン州(現在のパプア・西パプア州)の4番目の州知事です。南スラウェシのマリオで行われたマリオ会議(国家確立の会議)にパプア代表として出席し、その会議の中でパプア州の事を「イリアン」と呼ぶように提案したことが有名です。その後もインドネシアとパプアの併合に向けて様々な会議に出席し、結果として1969年にパプア州はインドネシアの一部となり、今も続いています。現在のビアク空港にフランス ・カイシエポの名が残っています。

Rp.5,000の肖像画

イダム・チャリッド(IDHAM CHALID)[1921-2010]
イダム・チャリッドは、南カリマンタン州サトゥイ出身で、独立戦争後は国会議員に選出され、カリマンタンの代表議員を務めました。その後、様々な役職を経験し、最終的にはインドネシアの最高諮問委員会委員長を務め、エリート街道を歩みます。チャリッドは政治だけでなく宗教活動にも積極的であり、後にイスラムの指導者と呼ばれます。彼は子供のころから知能が高く、学生時代は飛び級していたことでも有名で、アラビア語、オランダ語、日本語も流暢に喋れたと言われています。

Rp.2,000の肖像画

モハンマド・フスニ・タムリン(MOHAMMAD HOESNI THAMRIN )[1894-1941]
彼はジャカルタ特別州出身の民主主義運動指導者でオランダ人を祖父に持ち、裕福な家庭に生まれました。当時の地域社会を改善するために政治の世界へと足を踏み出し、25歳の若さでバタビアの市議会メンバーとして選出されました。その後、ジャカルタの副市長を経て人民評議会のメンバーとなり、民族解放、インドネシア語の使用などをオランダに提言しました。彼には国民的英雄の称号が与えられています。現在でも彼の銅像がモナス南側の通りに設置されています。また、ジャカルタの目抜き通りのタムリン通りは彼の名から付けられています。

Rp.1,000の肖像画

チュット メウティア(TJUT MEUTIA)[1870-1910]
チュット メウティアはスマトラ島北部のアチェ出身で、反オランダ戦争を戦った女性指揮官です。紙幣の中で女性は彼女ただ一人です。彼女はオランダとの独立戦争で戦った国民的な英雄で、夫が死んだ後、子供を知人に託し、新たに2番目の夫と結婚しました。再び共に戦いますが、最後は銃殺されてしまいます。インドネシアでは、オランダと勇敢に戦った女性と称され、今でも彼女の名前は語り継がれています。

両替(マネーチェンジャー)

両替えですが、空港でのレートはかなり低いので市内での両替をお勧め致します。ジャカルタですと市内の至る所にマネーチェンジャーがありますし、ショッピングモールの1階や地下1階に(※モールによってはもっと上の階にもあります)両替所があり、空港よりもずっと高いレートで交換可能です。
ジャカルタ市内ですと、プラザ・ブロックMモールの2Fにある「Tri Tunggal Money Changer」という両替所がかなり良いレートで交換してくれます。店内には日本語で「ジャカルタで一番高い交換レートを保証します」と書いてあるのには笑みがこぼれてしまいます。筆者も良く利用している両替所です。Tri Tunggal Money Changerはプラザ・ブロックMモールの他にもジャカルタのやや北寄りにあるセントラルパーク・モール内、そして、西ジャカルタのプリインダ・モール内にもあります。営業時間は10時00分~21時00分です。(※両替するときには、パスポートが必要ですので忘れずに持っていきましょう。)
インドネシアで両替されて一番最初に驚くのが、インドネシア・ルピアのゼロの数の多さです。例えば、1万円札を1枚を両替すると、インドネシアで一番高い紙幣である赤いRp.100,000が10枚とRp.10,000が4枚などというようなことになります。まるでお金持ちになったような錯覚にとらわれます。今の相場で考えると、最後の3桁のゼロを3つ取って、その数に7か8を掛けた数が日本円に当たると考えれば良いです。まあ面倒くさいと思われる方は、現地で買い物をする時は表示金額からゼロを二つ取ったのが日本円での金額だと考えればいいのではないかと思います。

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